不登校を問題にするの、やめませんか?

こんにちは。不登校ぎんちゃんねるのぎんちゃんです。

「不登校」という言葉を聞いたときに「それは問題だ」という認識が社会通念上としてあります。

不登校は問題なのでしょうか?

僕は、不登校が問題だとは思っていません。不登校はただの選択肢の一つにすぎないと考えているのです。

僕の目指している社会は「不登校を問題視しない社会」です。

不登校になることは悪いことでも問題になることでもなく、ただ「学校が合わなかったから学校に行かないという選択をしただけ」であるという共通認識を持った社会になることが多様性を受け入れたより良い社会になるのではないでしょうか?

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不登校を特別視する現代社会

現代社会では不登校になることを悪いことであるかのようにとらえ、特別扱いする傾向があると感じませんか?

「学校に行けないことは悪いことだから」と不登校になってしまった子どもを何とか学校に行かせようとして、悩みや心のケアをしようとしたり、先生や大人がほかの生徒に頼んで学校に来るように誘わせたり…。

こういった行動は「学校に来ないことは悪いことだ」という思い込みから引き起こされているのです。

このような思い込みから、学校の生徒も先生も不登校になった生徒を特別扱いし、まるで腫れものを触るかのような態度に出てしまうのです。

不登校の子を特別扱いすることで起こるデメリット

不登校になった生徒を特別扱いすることに対して、不登校になっている子自身はどのように感じるのでしょう?

腫れ物に触るように特別扱いされた子どもは敏感にそれをキャッチします。

「今、自分が学校に行くことができていないから、みんなが特別扱いしているんだな」と考えてしまうのです。

そう考えることは本人にとっても「自分は普通じゃないんだ」と負い目や罪悪感を覚えるようになってしまいます。

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普通であるとはどういうことか

「普通である」とはどういうことでしょうか?

「普通」という概念は、実は「平均」からとった概念です。数えきれない例があるうちのちょうど真ん中である平均を無理やり切り取った一部が「普通」となるのです。

誰かが考えて決めた「普通」の枠組みの中に入った子は「普通」であり、入れなかった子は「普通ではない」となります。

つまり、「普通」であるか「普通ではないか」という概念に優劣はないのです。

不登校であるか、そうではないかということは、実は、「学校に行っている」か「学校に行っていない」か、という二つの事実でしかありません。

このことは「背が高い」か「低い」か、というような特性の話と同じで、どちらが優れているか優れているかという優劣の話ではないのです。

一つの特性に対して「あっちが悪い」「こっちが悪い」というような判断を勝手にしているだけなのです。

このような勝手な判断が存在するために、不登校になった子どもや家族が「自分はおかしい」「自分はダメだ」と責めてしまい、苦しい思いをする洋右になってしまっているのです。

不登校を特別視しない社会になることがすべての人が生きやすい社会につながる

「不登校になる」ということは、ただ、「学校が合わなかったから学校に行かないという選択をした」というだけです。

不登校の子を特別扱いするのではなく、「学校が合わなかったから、学校に行かない選択をしたんだな」という共通認識ができる社会になることが、多様性が受け入れられた、多くの人にとって生きやすい社会につながる、そう考えています。

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